はだのの里地里山(自然塾丹沢ドン会からのメッセージ)

はだのの里地里山  文:NPO法人自然塾丹沢ドン会

秦野盆地は丹沢のエクボ
 空から見ると秦野盆地は丹沢山地のエクボのようです。北側に高い山々が迫っていますが、南側は相模灘に続く丘陵で、明るく温かなエクボです。 都心から鉄道でも車でもおよそ1時間。首都圏最後の緑の砦とされ、今では山や川に向かう観光客は引きも切りませんが、 高度経済成長期に首都圏が拡がりを見せるまでは、丹沢山麓の風と光そして大地が山麓特有の風土を築き上げていました。

春の菜の花、秋は蕎麦の花
山麓のどこからも美しい富士を仰ぎ見る事が出来ます。でも、ひとたび富士が怒ればその影響も当然のように受けなければなりません。昔、 火山である富士の爆発がこの地を火山灰で覆い尽くした事があります。絶望の大地に煙草が育ち、そして、 先人の知恵と努力で葉タバコの銘葉として世に知られるようになります。盆地は葉煙草一大生産地として、また春は煙草の前作の菜の花、 秋は後作の秋蕎麦が盆地を黄色く白く美しく彩りました。
葉煙草の栽培に欠く事ができなかったのが堆肥です。農家は、山の落ち葉を集めて発酵させて堆肥にしました。大切な農家の冬仕事です。 この農家の営みが美しい里山を作りました。コナラやクヌギは燃料として伐りだされ、常に再生が図られていましたので、 秦野の里山は何時も活力に満ち、林床の折々の草花は訪れる人の目を楽しませました。

美というより詩趣
里山は、普段は遠くの風のささやきが聞こえるような静かな林です。雲がほころんで、梢の間から薄い日の光が差し込んで、草の上をはねたり、 木の葉が風に誘われてひらひら舞い下りたりする光景が訪れる人を詩人にします。国木田独歩風にいえば、それは美というより寧ろ詩趣です。
コナラやクヌギですから黄葉します。黄葉するから落葉します。時雨がささやき、木枯らしが叫びます。木の葉を落とし尽くせば、 里山は一時裸になって、空は青く高く、空気が冴え渡ります。

農家の営みの変化
こんな美しかった里山が農家の営みの変化で変わり始めました。高度経済成長期、工場が多くの労働者を求めるようになり、農家の子はもちろんの事、 それまで農業を専業にしていた人たちをも受け入れたのです。
丁度同じ頃、台所の燃料が石油に変わり、薪や炭はいらなくなりました。原料の里山の木々が不用になったのです。石油から化学肥料が生産され、 堆肥の原料になった落ち葉もいらなくなってしまいました。こうなると山に入る人もいなくなります。

伐って再生を図ってきたが
人が入らなくなった里山のクヌギやコナラは大木になり、歳をとりました。以前でしたら15年もしくは20年周期で木を伐る事で、 萌芽更新による再生が計られました。太く歳をとった木々の再生は困難です。林床はアズマネザサに覆われて、暗く人の入ることを拒むようです。 かつて林床で花をつけたエビネやリンドウ、スミレなど種を落とす場所さえありません。樹液を出さなくなった老木には昆虫も集まりません。 生態系が変わろうとしています。クヌギやコナラの後継は林の中には見当たらず、今、 里山は落葉樹とカシやシイ等の照葉樹がせめぎあう遷移の只中にあるといえます。
環境省「里地里山の調査分析についての中間報告」によれば、「コナラ林は、本州東部を中心に中国地方日本海側に分布し、 薪炭林として活用されてきた。管理せず放置すると常緑広葉樹林に移行して林床に見られるカタクリ、スミレなどの植物は消失する事もある。また、 竹類、ネザサ類の進入、繁茂によって更新や移行が阻害され森林構造の単純化を招く」とあります。 人手により維持されてきた里山林は放置すれば里山林でなくなり四季折々の美しさをかもし出す落葉広葉樹林は消え、 笹薮か竹林あるいは照葉樹林に変わっていく、丹沢山麓は暖温帯に位置しており、放置することで最終的には常緑広葉樹林になるという報告です。

田畑の耕作放棄
山麓では丹沢の、多くの山が作りだす水を利用して稲作が営々と続けられてきました。山間ではそれが棚田となって、農村風景の美しさの中心、 また生物の多様性を生み出していました。農業が輝いていた時代には山も田畑も見事なほどに人の手が行き届いていたものです。ところが、 高度経済成長の原動力である工業化と都市化は農業を魅力のない仕事にしてしまったようです。ゴルフ場が出来、団地建設が進みました。
得るものがあれば、失うものがあるものです。工業化、都市化の結果として田畑が開発され、残された田畑も放置されるようになります。 里山は地権者の重荷とさえなり始め、美しさの中心だった棚田にはいつしか潅木が生え、棚田の面影さえありません。
いま、農作業を支えてきた昭和一桁世代は70歳を越え、農業を続けたくとも体が思うに任せなくなりました。 かくして耕作放棄地は広がり続けています。

貴重な普通な生物たち

山麓の名古木の生物調査を自然塾丹沢ドン会とともに始めた東海大学の北野 忠さんは 「名古木では里山の普通の生物が今なお普通に生きている」と言います。「普通」が強調されるのは、他が変わって普通ではなくなっているからです。 放置すればこの普通の生物もいずれ希少に変わってしまいます。この調査でドジョウの仲間が2種確認されました。 その一つのホトケドジョウは絶滅危惧種に指定されています。ここでは、昔と変わらず、田んぼの水路に普通にいますが、 他では希少になってしまいました。「ホトケドジョウがいなくたって、何が困る」と言う人たちがいます。彼らは、 今まで地球上に人間と一緒に生きてきた生物の仲間が消えても、人間生活に何も、関係しないと簡単に片付けてしまいます。確かに、 ドジョウがいなくなっても、それがどう自分に跳ね返ってくるのか良く分かりません。しかし、 自然はたくさんの構成要素が複雑に作用しあった巨大なシステムです。システムを構成する何かが欠けたとき、どんな影響が、 いつ現れるのか予測がつきません。少し前までなら時計の歯車で説明できたものです。どんなに小さな部品でも、なくなると動かなくなるか、 狂いが生じます。人間の体も巨大で緻密なシステムです。それぞれの部署が機能してはじめて健康を保っています。ですから、ドジョウもメダカも、 そしてミジンコだって自然のシステムを維持するために何らかの役割を果たしているに違いないのです。東海大学の北野さんたちの調査では、 この地域ではホトケドジョウも他の生物もまだ普通に生息しているとのことです。この「普通」は守らなければなりません。

山や田畑はあなたの出番を待っている

山や田畑は人手の入ることを待っています。更新を考えれば里山はもう待ったなしです。田畑もこのままを放置すれば美しい日本の原風景、 田園風景が消えてしまいます。ところが農業をする人も林業に携わる人も少なくなりました。山や田畑はあなたの出番を待っています。

山ろくの里地里山は、あなたの「ダッシュ村」になる

アイドルグループが山作業をし、荒れた田畑を耕し、村づくりを進めるテレビの人気番組があります。村の名は「ダッシュ村」。 ほのぼのとして、懐かしく見る人の共感を呼びます。番組の内容と同じような事が山麓の名古木で行われています。違いは、 名古木のほうは誰でも自由に参加できる事です。身体を動かす事は楽しいものです。仕事や学校で体験できなかったことが経験できますし、 ルールさえ守れば、仕事や勉強のように、義務も押し付けもなく自由です。ルールは簡単、 環境や他人に迷惑をかけないという当たり前の社会の規律だけです。技能が求められるときは仲間と助けあえばすむことですし、 基本的には自分のペースでできます。自然の中での共同業は人間関係を育みます。達成感はサラリーマンでは味わえなかったものです。主催者は、 活動の結果より、参加者の体験を尊重します。潜在的な能力に目覚める人もいますし、今までにない自分を発見する人もいます。きっと、あなたの 「ダッシュ村」に自分の居場所を見出す事が出来るでしょう。

2005年09月10日 [レポート]

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