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上越後 無常の大地に日本をみた

地元学ネットワーク主宰 吉本哲郎

吉本哲郎さんからお預かりした寄稿文です。(JT)
かみえちご山里ファン倶楽部(新潟県上越市) に訪問した際に、上越の基層文化を綴ったものです。
最終節を文頭に引用します。

「山に入り森と語れ、遊行する祖霊神の気配を感じとれ、
 海と陸の間に自らの身を置け、もう一つのこの世に耳を傾けよ
 圧倒しつくす自然の脅威に思え、たかが知れている人間だと
 命が宿っている天地万物に知れ、大宇宙に対して小さな自分だと
 そこに他人の運命をも自分の宿命だと感じる無常の救いが横たわっているのだ」


7月初旬の信州、信濃の国から越後路は梅雨空の下にある。日本海を北に進む黒潮対馬暖流の水蒸気にかすむ日本の屋根、 まだ雪を抱いた北アルプスを左遠くに眺めながら糸魚川へ姫川に沿って走る。姫川の谷は深く北アルプスの山々は高い。 1000mの高原に2000mの山があり、その奥に3000mもの奥山が聳えたつ。御嶽(3067m)、乗倉岳(3024m)、奥穂高岳 (3130m)、槍ヶ岳(3180m)、野口五郎岳(2924m)、鹿島槍ヶ岳(2889m)、槌ケ岳(2903m)、白馬岳(2903m) である。これらの山が朝日岳(2418m)、黒姫山(1222m)を経て親不知で日本海に立っている。北アルプスは日本海に始まるのである。
上越の南西にある、北陸街道の難所として知られた親不知。
親不知は、2000mを越す山並み、夏も雪を抱く北アルプスの山たちが日本海にたてた衝立である。一気に崖となって日本海に切れ込んでいる。 400~500mの断崖が続く親不知海岸には尾根などに迂回する道とてなく、 人は海と崖の岸にできたわずかな隙間を歩いて渡るしかなかった。波洗う石の浜を通り、風吹きすさぶ崖にとりつき波を避けて渡った。 波穏やかな日はいい。しかし海はいったん荒れると容赦なく旅人に襲い掛かり、海深く人を引きずり込んだ。そんな道である。

崖を穿ち鉄道をつくっても、雪崩がトンネルを出た汽車を襲い海へと突き落とした。聞けばいくつもの哀しい話を、 崖の奥深くしみ込ませている大地である。
無事に渡れるよう波除け観音に祈った旅人たち。人を寄せ付けぬ高い崖が続き10kmに及ぶ波内際の道、親不知は朝日岳・白馬岳を経て槍・ 穂高連峰に至る北アルプスの始まる海の細道、親不知。よくよく見ればあの世の入り口があるところだった。
今から800年前にも、源氏と平家が栄華と没落を繰り返した昔、越後に流された夫の後を追った妻が、 この地で懐に抱いていた愛児を波にさらわれ「親しらず 子はこの浦の 波まくら 越後の磯の あわと消えゆく」 と悲歎のすえに歌を詠んだと聞く。そんな親不知を、今も変わらずに夕陽が照らしている。
日本海は夕陽沈む海である。遠く能登の半島越しに朝鮮半島とロシアを照らす太陽が日本に夕陽を届けている。越後とは、 日本海の夕陽に特化した大地なのである。海はるかに、もう一つのこの世からこの世を照らし出しているかのように。

関川が日本海に届いている。源流は妙高高原、焼岳(2400m)、高妻山(2353m)、妙高山(2454m)、黒姫山(2053m) に生まれた水が東に進み北に流れを変え関川となり、広大な上越の平野をつくり、日本海に届いている。ここは直江の津と呼ばれた港町、 木材に塩に塩魚が運ばれ人が行き来したところ。
古くは森鴎外作の山椒太夫という親子姉弟離散の物語の舞台、悲しくも哀しい物語が似合うところである。

親不知近くに桑取川がある。1000mの山々を源とし日本海へと注ぐほどよい大きさと長さの川がつくった大地に、村人たちは田を開き、 畑をこしらえ、山すそあたりに住まいを定めている。いわゆるふるさとの、川のある風景、日本にあった昔懐かしい農村の形を今に伝えている。 何よりもクルミ、ブナ、コナラ、アオダモなどの落葉広葉樹が山を覆っているのがいい、水がうまいのがいい、米もおいしいはずである。 見ると田や畑からだけでなく、山からフキ、ワラビ、ウド、タラノメ、コゴミ、ミズナなどの山菜のほかキノコたち、川からは鮭、 岩魚などを得て暮らしているのがよくわかる。トタンをかぶせてはいるけど元は茅葺の民家の家並みたちがあり郷愁を誘っている。 だからホッとする思い、ここだったら生きられる思いが身の内に湧いてくるのだろう。

ここに若者たちが働くようになったのは最近のことである。たずねると、民家修復の仕事をしていた。 廃校になった学校跡でも三人の若者たちが環境をキーワードに働いていた。 ゴルフ場になるのを反対し買い上げた市民の森でも若者たちが森のある暮らしをテーマに様々なプログラムを組み案内している。
夜、宴が開かれた。キュウリの入った汁は初めてだ。でもおいしい。唄があった、牧場小唄などにぎやかである。 酒を友とする土地人たちの唄は心に染みた。踊りもあった。盆踊りである。でも、男たち五人で唄ってくれた木遣り唄には驚いた。 体を揺さぶる何かが伝わってきた。地元の人たちも体いっぱい床に感動を叩きつけている。祝い唄として佐渡の「鼓動」 の人たちに断って村に持ち込み、昔ふうにした仲間の結婚式で披露したと聞く。村の人たちの感動する姿が目に浮かんできた。
新しい風が吹いていた。そんな宴だった。客人をもてなす宴には唄があり踊りがあった。
心に染みた、雪国の暖かさを知った。明るさと哀しさが同居する大地、越後を思った。

越後に厳しい自然が顔をのぞかせる。冬の5mもの大雪、吹雪、雪崩、雪解けの出水、大雨と洪水、台風、 時には地震などが幾度も越後を襲い、崩れやすい地質とあいまって幾多の悲劇と哀歌を、糸魚川の大峡谷や親不知などの大地に刻んできた。 工事中の土砂崩れ、列車や車などを襲った雪崩、地震などで幾人もの人が亡くなり、親と子が引き裂かれた越後。

厳しい自然に、人が腹を決めて生きている越後、そこには縄文のはるか昔より続く無常観を引き寄せた人の姿があった。
古の昔より人は、幾層もの文化のひだを重ねて暮らしてきた。縄文期の無常観、弥生期の定住農耕社会における文化文明と仏教、 現代の工業化社会における近代合理思想に都市という人工の思想。

越後とは何であったのか、北アルプスが人を寄せ付けず西国との往来を困難にし、 海ぎわの道も親不知と呼ばれる難所となって旅人に襲い掛かっていた。圧倒的な自然のもたらす厳しさが、縄文以降、 日本人の基層文化となった無常観を発達させたところが越後なのであろう。人は、 人の力ではどうしようもない自然の厳しさに畏怖し従順になったと聞いた。自然厳しい越後には無常観が似合うのである。無常の大地、 越後であった。
越後の民は「この世には永遠にあるものなどなにもない」という無常観に自分の経験を重ね、情を重ね、 思うままにならないから唄でほとばしらせ、思いが届かないから踊りに托したのだ。

●再び越後 
越後は、日本人が心の奥深くしまいこんでいた縄文の無常観をみせるところ、無常の出来事に自分の経験を重ね自分のことのようにしたとろ、 越後は悲しくて哀しい話に彩られていた。そんな身を切られる話に自分の身を重ねて暮らしてきた人たちがいた。 自分の生身の体を重ねてもだえるかのような哀感、同情、共感・・・今も悲しみで、自分の経験を引き出す人たち。

崩れやすい地質、深い谷、荒れる海、積もる雪、豪雨・・・
越後の水、土、光、風は厳しい。越後は無常の大地にあった。それでも人は生きている、ここ越後に生きていく。
人は異変にあい、危機に直面し、困り果て、大きな時代の変化の波に翻弄されたとき、 縄文の古代から受け継いできた最も深い心のひだを手繰り寄せる。日本の風土や自然の中で育まれた最深層の意識、日本人あるいは人間の真の姿、 無常観である。

恵みをもたらすが、時として怒り狂う自然の脅威に畏れの心を抱き、神を宿らせ、神の声を聞き、小さい存在である人間としてひれ伏し、 従い、寄り添い、学び、工夫し、力を蓄え、生きてきた先祖たち、天然の無常を養ってきた先祖たち

「世の中に永遠なるものは一つもない。形あるものは全て滅する。人生とは、世界とは、人間とは移ろいやすいものだ」

 寄せては返す越後の海波に諸行無常を感じた旅人たち、越後路は無限の同情と悲哀、はかなさと繊細さに満ちていた。

人の世の深い悲しみに彩られた自然厳しい日本海、そこには他人への深い思いやりと心の痛みに寄り添い、 身をゆだねて生きていく力が立ち上がっていた。無常である。
無常観がつくった、恥じらいを知り、一歩引く含羞の精神、日本人の心を越後に見た。日本のもう一つの始まりの唄を越後に聞いた。

山に入り森と語れ、遊行する祖霊神の気配を感じとれ、
海と陸の間に自らの身を置け、もう一つのこの世に耳を傾けよ
圧倒しつくす自然の脅威に思え、たかが知れている人間だと
命が宿っている天地万物に知れ、大宇宙に対して小さな自分だと
そこに他人の運命をも自分の宿命だと感じる無常の救いが横たわっているのだ

2005/7/7
地元学実施レポート

 

2005年09月09日 | 里の再生