地元学による里地づくりの評価
機関誌『環境情報科学』
『環境情報科学』
34巻1号 特集:持続可能な地域づくりの潮流と戦略-第三の道の可能性を評価する
(平成17年5月12日掲載)
持続可能な地域づくりの実践と評価
「里地ネットワークと地元学」
Local study workshop by Network for Sustainable Rural Communities
(NRSC.)
.竹田純一 Junichi Takeda
はじめに
里地とは、その特徴を一言でいうなら「都市から自然へ至る中間領域」、都市計画域でも自然保護地域でもないこの地域は、
制度的に明確な規定を備えていないことを背景に、乱開発や過疎化が容易に進み得た地域である。
内藤正明(1996)は、里地には、食糧生産を担う「経済的機能」生物多様性の保持や二酸化炭素の吸収源としての森林環境を保全する
「環境保全機能」、人の心をいやす景観などが存在することによる「審美的機能」の3つの重要な機能を位置づけた。
このような機能へのニーズの高まりと過疎化あるいは過度の開発に対する危機感から、身近な自然を生かした里地振興が求められ、
1998年里地ネットワークは誕生した。英文名称は、Network for sustainable rural
communities 持続可能な第三のシナリオづくりを小さなモデルを示しながら提案する組織である。
1.里地と里地里山
環境基本計画(2000)では、「里地自然地域」は、循環、共生、参加が可能な場であり、持続可能社会のモデルは、この里地自然地域(通称:
里地)で実現可能であると記している。私は、この3つの理念を、地域内循環、人と人、人と自然の共生、住民参加と位置づけ(テキスト「里地」
1998)、持続可能なコミュニティーの一つの尺度としてとらえてきた。
一方、新・生物多様性国家戦略(2002)では、生物多様性は、人間を含む生物の拠り所と位置づけ「里地里山自然地域」
における生物多様性の保全を警鐘している。ここでの持続可能性の尺度は、身近な生物との共生である。
2.里地・里山の危機
里地では、昭和30年代以降、郷里を離れ都会へ向かう一貫した離農傾向は変わらず、特に、中山間地域、過疎地域と称された地域では、
人口流出と高齢化、若年層の食料生産以外の産業への転換が著しく、今もこの傾向は変わらない。過疎高齢化の極端なケースでは、過疎、
独居老人集落という状況さえ出現している。この若年層離れの傾向は、里地における食料生産機能を低下させ、
里山の放置と田畑の耕作放棄を加速させている。この結果は、人の心をいやす審美的機能さえも喪失させている。この放棄は、
人の行かない里山を生みだし、不法投棄の場所として狙われ、大気、水質、土壌汚染を伴う環境負荷の危機にさらされている。
3.生物多様性の現状
生物の観点からは、かつての土地改良に伴う水田水路の乾田化や環境の単一化、農薬化学肥料などの影響により、生物多様性は喪失しかけた。
しかしここ数年、魚毒性の低い農薬が開発され、身近な生物への直接的な影響は軽減されてきた。この結果、メダカやホタル等、
化学物質等の影響を直接受けていた里地里山の生物は、徐々に回復する兆しが見え始めた。新・生物多様性国家戦略(2000)では、
絶滅の危機に瀕している生物の約半分が、里地里山に生息していると指摘している。開発による危機、放置による危機、移入種、
化学物質による危機を警鐘し、生物多様性の保全に向けた各主体毎の転換を求めている。この基本戦略にもとづき、環境省では、
里地里山の保全に関わる調査事業を開始した。2004年からは、里地里山の保全再生に向けたモデル事業を開始した。
4.里地ネットワークの取り組み
里地ネットワークでは、里地のもつ3つの機能と、生物多様性の保全の観点から、
図に示すテーマを設定しローカルで小さなモデルづくりを通じた社会提案を行ってきた。
1997年~2000年
全国の先進事例調査とシンポジウムを開催し、内発型、持続型地域づくりを実践している自治体に関する情報収集を行った。
水俣市における地元学の取り組み、熊本県小国町の交流と学習、北海道標茶町、鳥取県智頭町の地域計画作成技法を、
内発型の自治システムの指針として、里地ネットワークの行動理念に据えた。この概要は「テキスト里地」及び、「グリーンジャーナル」
(日刊工業新聞)に連載し後に「循環共生の旅」としてまとめた。この調査と併行して、環境保全型のローテク技術調査、
地域新エネルギービジョンの作成支援、廃棄物リサイクルに関する先進事例の収集を行い、自治(地元学+計画策定技法)、技術、
廃棄物に関する先進事例の把握を行った。
2000年~2002年
全国20箇所の里地里山保全活動をイオン環境財団と共に実践した。地域ごとに異なる風土と植生、ふれあいニーズに対して、
住民自治と合致する保全活動をめざした。手法の詳細と活動記録は、「里地里山保全ノウハウ集」「里地里山をデザインする」にまとめ、
その概要をHPで公開している。この保全活動と連動して、佐渡における「トキの野生復帰をめざした地域社会づくり」
と農林水産省と環境省の連携調査の事務局を担当した。トキは3年間の実践を通じて誕生した地域組織を核に将来の地域社会像を描き、
連携調査は、生物多様性と農村の新たな指針を「人と自然が織りなす里地環境づくり」を示した。
2003年~2006年
新・生物多様性国家戦略を受けた環境省の里地里山保全方策の検討を自然環境研究センターと共に行った。本年は、神奈川県秦野地域、
福井県武生地域、熊本県宮原町周辺をモデル地域として保全再生の素案づくりを行っている。
佐渡では、ビジョンの実現に向けた交流シナリオの一つであるトキ交流会館で都市住民との交流と保全、経済的な要因の検討を行っている。
これらの取り組みを通じて、里地里山における持続可能社会の実現と希少生物の保全は、
集落の持続的な存続という点で不可分であることを確認した。
このような活動展開と社会基盤の変化の中で、日本財団では郷土学(地元学)への助成制度を開始し、
イオン環境財団では同財団の15周年を記念して1億5000万円の里山整備助成制度を設けた。
里地里山運動、持続可能社会をめざす各活動団体等への両財団の支援に心より敬意を表したい。
5.地元学とは、生き方、暮らし方、地域づくりの『哲学』である
里地ネットワークが行っている地元学を「えこのもりセミナー・コンセプト・プログラム開発会議」(2002)
http://www.jeef.or.jp/economori/cpkk/index.html
にて紹介させていただいた際、同会議では地元学を、コミュニケーションの活性化の技法と位置づけた。同時に、
循環型社会への導きを果たす働きがあり、その誘導者は、アニメーター(地域を元気づける人)の機能を果たしていると結論づけた。
地元学は、地元に住んでいる人自身が、自らの地域を見つめ直す活動である。地域の状況を正確に把握する地域の在庫リストの作成作業(犬井正、
獨協大学経済地理研究室)と解説するとわかりやすい。この過去から引き継がれてきた現在の集落の姿を、
残らず把握することができるのが地元学の特徴のひとつである。しかし、集落の全ては把握できるものではなく、把握している人もいない。
だからこそ、住民全員で、集落の今を見つめ直そうとする姿勢や考え方、哲学が重要である。地元学を行うことで、住民自身が知らないこと、
はじめて出会うことが非常に多いことに気づく。「知ろうとしなかった地元のこと」「調べた人しか詳しくならない」
「地域を見つめるまなざしの開発」「形ある物の意味を考える」「本当のことは、道化師にならないといえない」「耳を傾ける」「問いを発する」
「自分の言葉で語る」。地元学の提唱者、吉本哲朗の名言である。
このマナザシの開発は、そこに住んでいる地元の人ではできない。また道化師役も、地元の人が行えるケースは稀である。地元学には、
良い意味で外部者(ヨソモノ=若者、バカモノ)の存在が不可欠である。ヨソモノの目を借りて、地元に住む人が、
自らの地域の今を見つめる作業が、地元学である。集落の方向性や事業の目的をもたないのは、このためである。もし、
目的が決まっているのであれば、地元住民の参加は、限られた人のみになる。地元学とは、ある方向に結論づける道具ではない。
水俣の人々の心をかつてのように、水俣の豊かな自然や文化に戻したように、地元学とは、
集落のコミュニケーションを活性化させることができる哲学である。
6.里地ネットワークと地元学
私が地元学を実施する場合、以下のどのフェーズで実施するか、または、実施可能かを地域ごとに予め想定している。
(1) 技法としての地元学(地図と写真付資源カードをアウトプットするワークショップ、乃至は研修)
(2) コミュニケーションを活性化させるための手法としての本来の地元学
(3) 地元学後に、アニメーター役を果たし、地域を元気づけることを視野に入れた地元学
(4) 地元学、アニメーター機能、プロデューサー機能を発揮し、集落ビジョン等を作成し活性化を図る
地元学は、地元の人が、地元のことを、地元のために見つめ直す作業(吉本哲朗「私の地元学」)である。地元の人が不在の地元学は、
狭義の地元学ではない。私は、さまざまな地域で地域住民とともに地元学を実施してきたが、それ以上に、研修や講習会で、
ヨソモノ中心の地元学(広義)を実施してきた。
その点から、これまでの地元学を振り返れば、佐渡の野浦、久地河内、城腰や、山形県戸沢村、神奈川県城山町、愛知県美浜町、
福井県武生市の地元学は、地元住民主体の地元学であり、また、持続可能社会の構築のための貴重な事例である。今後、アニメーター、
プロデューサーとしての機能を果たす者が継続的に関わることにより、持続可能社会へのステップをかけあがれるのではないかと考えている。
一方、ワークショップ的に実施した地元学でも、地元に時代にあったリーダーがいる場所では、
持続可能社会に向けた同様の成果を上げる可能性がある。
7.地元学の評価と課題
狭義の地元学は、集落住民の中に残されたわだかまりや偏見、情報の偏りをなくし、地域の過去から現在までの概要を住民自身が再確認し、
今ある生活文化と、専門家や役場の情報をもとに、住民自身が地域の将来像を描き、方向性を判断することができる。
行政主導の地域計画との違いは、事前の合意形成が成立している点に、哲学としての地元学と他の技法との相違がある。
広義の地元学では、住民の参加が少ない場合でも、実施事務局側の姿勢やマナザシの置き方により、
狭義の地元学に近い提案を外部から地元に提案することができる。この場合、事後の地元学を行うことにより、フォローすることも可能である。
地元学の実施から7年を経て、初期に実施した地域とのつきあいは、既に7年に及ぶ。これまで十分な時間を人材育成に励めなかったが、
その背後には、単なるワークショップでは、地域は活性化しにくいことにある。同様に、地元の人が集まった際に、
ファシリティーターが地元学を行っても、手法にとどまり、活性化を期待した住民の意識に応えられない可能性がある。
哲学としての意識がないとたどり着けないことがわかる。
一方、戦略立案能力の高いコーディネーターが、地元のためではなく、
政策のためにこの手法を活用することに対するいささかの不安がまだ私の中にある。
最後に、持続可能社会づくりに、本誌に掲げられた他のすばらしい技法と合わせて、地元学が寄与することを祈念してやまない。
2010年01月01日
里なび研修会 全国10箇所で開催中
環境省 里なび研修会を、北海道から福岡までの全国10箇所で開催中です。詳細は、「里なびホームページ」をご覧下さい。また、2009年2月20日には、 東京での全国セミナーも開催します。詳細は、今しばらくお待ち下さい。
2008年11月20日
角川里の自然環境学校(山形県戸沢村)
秋の2泊3日 戸沢村から呼ばれて、角川里の自然環境学校に行きました。 せっかくの秋、紅葉の季節なので、エコツアー体験モニターとして、(財)水と緑の惑星保全機構の事務局の美帆ちゃんをつれて、 来年度から戸沢村で始まろうとしているエコツアー、グリーンツーリズムの予行練習と今後の村づくりの方向性の調査を合わせて行ってきました。
角川のブナ林、集落から150m登った里山と紅葉の美しい奥山。この散策道は、昨年、勇士等で整備して通れるようになりました。
四カ所のビオトープを回って生き物観察をしました。保全を進めるビオトープ、こどもたちが夢中で駆け回る農村。 遊びや暮らしが景観を作り始めています。
川の中でタマアミをいれたら入ったカジカや、散策中に手にとまったテントウムシ。
里山の中で、くず細工にするアケビのツルをとる。採りすぎないように、来年ここで、アケビが食べられるように、 部分的にいただきました。社会教育課長の寺内さんも、生活学芸員でした。
生き物調べと、狩猟採取。もちろん、野菜、大豆、そば、米も自分で収穫。
自然学校の出川君と美帆ちゃん。作業後は、食の教室。地元素材100%を料理しました。
今日は、大豆が主役。お豆腐、おからのハンバーグ、豆乳の野菜汁、おからのドーナッツ。
2haのそば畑で、3トンを超えるそばを栽培。おそば屋さんが、そば道場で、そばを打ってそのままいただきます。宿泊は、 民泊とヨソモン交流会館。これも佐渡をちゃんとまねしてくれています。
帰りの車窓で、出川君のお友達の和江さんは、生き物に夢中。最後は、今後のビオトープの展開や、ツーリズムの方向、 村づくりの方向を確認して、2泊3日の戸沢滞在から帰ってきました。
現地で私達の案内をしてくれたのは、出川真也君と、戸沢村の阿部教育長、教育委員会の寺内課長、村民会議をはじめとする、地域の方々、 百数十名でした。出川真也君は、東北大学の学生で、平成13~14年にかけて、たびたび佐渡のヨソモンセンターに来て、 本人の研究活動の一環として、集落調査の手伝をしてくれた青年です。また、同時に、さまざまな地域を出川君には見てもらいたいと思い、 福井県や愛知県美浜町、全国の森里川海のネットワークなど、 先進的な取り組みをしている人と地域との交流を合わせて進めています。
私が、戸沢村にはじめて訪れたのは、農文協から発行された現代農業臨時増刊号「地元学は地域を変える」(平成13年5月) がきっかけでした。この本の中に、佐渡での取り組みの紹介や、山形での小学校版地元学の実施例を書いていたのを見て、 戸沢村から講演を頼まれたことが、この村との最初の出会いです。その翌年、平成14年、戸沢村で、村からの依頼で地元学を実施しました。 そこから出川君が合流して、その後も、地域の中で、きめ細かな地元学を、常駐しながら実施してきました。その翌年の平成15年、 小峰書店から里地ネットワークへ、小学校を舞台に、里山の暮らしや自然の四季を取材して、 図書館に治める本を作りたいという相談がありました。農文協の地元学の本を書く際に、 学校での取り組みを一緒に書いて頂いた斉藤校長先生のいる戸沢村ならば、この依頼にこたえられるに違いないと思い相談したところ、 村の4つの小学校を舞台に、順次、四季の取材を行い、全体を通して戸沢村の1年を記録するという方法をとることとなりました。
この本の取材のために行ったのが、戸沢里地塾です。年4回のプログラムのコーディネーターは、4つの小学校の校長先生と、 戸沢村民会議の十数名の勇士たち。この村民会議と教育委員会の連携こそが、教育長と社会教育課長が、 数十年かけて育ててきた戸沢村にしかない、地域と学校が連携して、学校教育と社会教育を押し進める体制でした。戸沢里地塾は、 この連携体制の強さを証明する絶好の機会になりました。およそ1年半の取材を終えて、平成16年春、守山弘先生の監修を終えて、 無事本は出版されました。本の名前は、 「里山―人と林がつくる自然 身近な自然でふるさと学習」です。この本は、 全6巻の身近な自然でふるさと学習の1冊です。
この本の完成と時期が重なるように、環境省では、読売新聞と共催して、日本の里地里山30保全活動コンクールを行いました。この30団体に、 里地塾をきっかけに戸沢村で行った地域活動は、見事コンテストで入賞しました。この間に、4つの地域の内の一つで、 出川君の常駐調査を受け入れてくれたのが、角川地区(地区住民1200人)で、地区の中心である本郷集落を核にしながら、 順次周辺地区に地元学が広がっていきました。角川里の自然環境学校は、住民から支持され、今では、200人近い高齢者の方々が、生活学芸員、 生活職人のような風合いで、自然学校の、山、川、里、 食等の先生役として、活躍しています。
さらに本年、田園自然再生活動コンクール(農林水産省・ 農村環境整備センター)に応募し、審査委員会審査を経て受賞が決まりそうです。審査委員会では、特に、守山先生から、ビオトープづくりが 「メダカ」や単独の種を中心とする偏った保全に向かわないように、地域の自然環境そのものをきちんと見つめ、 自然の中の生態系そのものを保全して欲しいというコメントをいただきました。また、現地調査を行った浜本委員からは、現在はまだ、 さまざまな取り組みが構築中という段階だが、18年度からこれまでの基盤をベースとした体験型のツーリズムを実施し、特に、 これまでの学校教育、社会教育の成果を生かした若手人材の雇用の道を開くならば、大いに期待できるというあついエールを頂きました。 この賞は、11月中旬頃正式な審査結果が発表される予定です。
地元学、生活学芸員、生活職人、地産地消、食の掘り起こし、里地里山の文化を祖父母の代から孫の代へ直接伝える、そして、 里地里山の文化を軸とした地域内雇用。戸沢村では、これから三年、私達が待ち望んでいた一つの理想的な循環・共生・ 参加型の社会モデルの一つが形づくられそうな気配を感じます。
2005年11月10日
上越後 無常の大地に日本をみた
地元学ネットワーク主宰 吉本哲郎
吉本哲郎さんからお預かりした寄稿文です。(JT)
かみえちご山里ファン倶楽部(新潟県上越市)
に訪問した際に、上越の基層文化を綴ったものです。
最終節を文頭に引用します。
「山に入り森と語れ、遊行する祖霊神の気配を感じとれ、
海と陸の間に自らの身を置け、もう一つのこの世に耳を傾けよ
圧倒しつくす自然の脅威に思え、たかが知れている人間だと
命が宿っている天地万物に知れ、大宇宙に対して小さな自分だと
そこに他人の運命をも自分の宿命だと感じる無常の救いが横たわっているのだ」
7月初旬の信州、信濃の国から越後路は梅雨空の下にある。日本海を北に進む黒潮対馬暖流の水蒸気にかすむ日本の屋根、
まだ雪を抱いた北アルプスを左遠くに眺めながら糸魚川へ姫川に沿って走る。姫川の谷は深く北アルプスの山々は高い。
1000mの高原に2000mの山があり、その奥に3000mもの奥山が聳えたつ。御嶽(3067m)、乗倉岳(3024m)、奥穂高岳
(3130m)、槍ヶ岳(3180m)、野口五郎岳(2924m)、鹿島槍ヶ岳(2889m)、槌ケ岳(2903m)、白馬岳(2903m)
である。これらの山が朝日岳(2418m)、黒姫山(1222m)を経て親不知で日本海に立っている。北アルプスは日本海に始まるのである。
上越の南西にある、北陸街道の難所として知られた親不知。
親不知は、2000mを越す山並み、夏も雪を抱く北アルプスの山たちが日本海にたてた衝立である。一気に崖となって日本海に切れ込んでいる。
400~500mの断崖が続く親不知海岸には尾根などに迂回する道とてなく、
人は海と崖の岸にできたわずかな隙間を歩いて渡るしかなかった。波洗う石の浜を通り、風吹きすさぶ崖にとりつき波を避けて渡った。
波穏やかな日はいい。しかし海はいったん荒れると容赦なく旅人に襲い掛かり、海深く人を引きずり込んだ。そんな道である。
崖を穿ち鉄道をつくっても、雪崩がトンネルを出た汽車を襲い海へと突き落とした。聞けばいくつもの哀しい話を、
崖の奥深くしみ込ませている大地である。
無事に渡れるよう波除け観音に祈った旅人たち。人を寄せ付けぬ高い崖が続き10kmに及ぶ波内際の道、親不知は朝日岳・白馬岳を経て槍・
穂高連峰に至る北アルプスの始まる海の細道、親不知。よくよく見ればあの世の入り口があるところだった。
今から800年前にも、源氏と平家が栄華と没落を繰り返した昔、越後に流された夫の後を追った妻が、
この地で懐に抱いていた愛児を波にさらわれ「親しらず 子はこの浦の 波まくら 越後の磯の あわと消えゆく」
と悲歎のすえに歌を詠んだと聞く。そんな親不知を、今も変わらずに夕陽が照らしている。
日本海は夕陽沈む海である。遠く能登の半島越しに朝鮮半島とロシアを照らす太陽が日本に夕陽を届けている。越後とは、
日本海の夕陽に特化した大地なのである。海はるかに、もう一つのこの世からこの世を照らし出しているかのように。
関川が日本海に届いている。源流は妙高高原、焼岳(2400m)、高妻山(2353m)、妙高山(2454m)、黒姫山(2053m)
に生まれた水が東に進み北に流れを変え関川となり、広大な上越の平野をつくり、日本海に届いている。ここは直江の津と呼ばれた港町、
木材に塩に塩魚が運ばれ人が行き来したところ。
古くは森鴎外作の山椒太夫という親子姉弟離散の物語の舞台、悲しくも哀しい物語が似合うところである。
親不知近くに桑取川がある。1000mの山々を源とし日本海へと注ぐほどよい大きさと長さの川がつくった大地に、村人たちは田を開き、 畑をこしらえ、山すそあたりに住まいを定めている。いわゆるふるさとの、川のある風景、日本にあった昔懐かしい農村の形を今に伝えている。 何よりもクルミ、ブナ、コナラ、アオダモなどの落葉広葉樹が山を覆っているのがいい、水がうまいのがいい、米もおいしいはずである。 見ると田や畑からだけでなく、山からフキ、ワラビ、ウド、タラノメ、コゴミ、ミズナなどの山菜のほかキノコたち、川からは鮭、 岩魚などを得て暮らしているのがよくわかる。トタンをかぶせてはいるけど元は茅葺の民家の家並みたちがあり郷愁を誘っている。 だからホッとする思い、ここだったら生きられる思いが身の内に湧いてくるのだろう。
ここに若者たちが働くようになったのは最近のことである。たずねると、民家修復の仕事をしていた。
廃校になった学校跡でも三人の若者たちが環境をキーワードに働いていた。
ゴルフ場になるのを反対し買い上げた市民の森でも若者たちが森のある暮らしをテーマに様々なプログラムを組み案内している。
夜、宴が開かれた。キュウリの入った汁は初めてだ。でもおいしい。唄があった、牧場小唄などにぎやかである。
酒を友とする土地人たちの唄は心に染みた。踊りもあった。盆踊りである。でも、男たち五人で唄ってくれた木遣り唄には驚いた。
体を揺さぶる何かが伝わってきた。地元の人たちも体いっぱい床に感動を叩きつけている。祝い唄として佐渡の「鼓動」
の人たちに断って村に持ち込み、昔ふうにした仲間の結婚式で披露したと聞く。村の人たちの感動する姿が目に浮かんできた。
新しい風が吹いていた。そんな宴だった。客人をもてなす宴には唄があり踊りがあった。
心に染みた、雪国の暖かさを知った。明るさと哀しさが同居する大地、越後を思った。
越後に厳しい自然が顔をのぞかせる。冬の5mもの大雪、吹雪、雪崩、雪解けの出水、大雨と洪水、台風、 時には地震などが幾度も越後を襲い、崩れやすい地質とあいまって幾多の悲劇と哀歌を、糸魚川の大峡谷や親不知などの大地に刻んできた。 工事中の土砂崩れ、列車や車などを襲った雪崩、地震などで幾人もの人が亡くなり、親と子が引き裂かれた越後。
厳しい自然に、人が腹を決めて生きている越後、そこには縄文のはるか昔より続く無常観を引き寄せた人の姿があった。
古の昔より人は、幾層もの文化のひだを重ねて暮らしてきた。縄文期の無常観、弥生期の定住農耕社会における文化文明と仏教、
現代の工業化社会における近代合理思想に都市という人工の思想。
越後とは何であったのか、北アルプスが人を寄せ付けず西国との往来を困難にし、
海ぎわの道も親不知と呼ばれる難所となって旅人に襲い掛かっていた。圧倒的な自然のもたらす厳しさが、縄文以降、
日本人の基層文化となった無常観を発達させたところが越後なのであろう。人は、
人の力ではどうしようもない自然の厳しさに畏怖し従順になったと聞いた。自然厳しい越後には無常観が似合うのである。無常の大地、
越後であった。
越後の民は「この世には永遠にあるものなどなにもない」という無常観に自分の経験を重ね、情を重ね、
思うままにならないから唄でほとばしらせ、思いが届かないから踊りに托したのだ。
●再び越後
越後は、日本人が心の奥深くしまいこんでいた縄文の無常観をみせるところ、無常の出来事に自分の経験を重ね自分のことのようにしたとろ、
越後は悲しくて哀しい話に彩られていた。そんな身を切られる話に自分の身を重ねて暮らしてきた人たちがいた。
自分の生身の体を重ねてもだえるかのような哀感、同情、共感・・・今も悲しみで、自分の経験を引き出す人たち。
崩れやすい地質、深い谷、荒れる海、積もる雪、豪雨・・・
越後の水、土、光、風は厳しい。越後は無常の大地にあった。それでも人は生きている、ここ越後に生きていく。
人は異変にあい、危機に直面し、困り果て、大きな時代の変化の波に翻弄されたとき、
縄文の古代から受け継いできた最も深い心のひだを手繰り寄せる。日本の風土や自然の中で育まれた最深層の意識、日本人あるいは人間の真の姿、
無常観である。
恵みをもたらすが、時として怒り狂う自然の脅威に畏れの心を抱き、神を宿らせ、神の声を聞き、小さい存在である人間としてひれ伏し、 従い、寄り添い、学び、工夫し、力を蓄え、生きてきた先祖たち、天然の無常を養ってきた先祖たち
「世の中に永遠なるものは一つもない。形あるものは全て滅する。人生とは、世界とは、人間とは移ろいやすいものだ」
寄せては返す越後の海波に諸行無常を感じた旅人たち、越後路は無限の同情と悲哀、はかなさと繊細さに満ちていた。
人の世の深い悲しみに彩られた自然厳しい日本海、そこには他人への深い思いやりと心の痛みに寄り添い、
身をゆだねて生きていく力が立ち上がっていた。無常である。
無常観がつくった、恥じらいを知り、一歩引く含羞の精神、日本人の心を越後に見た。日本のもう一つの始まりの唄を越後に聞いた。
山に入り森と語れ、遊行する祖霊神の気配を感じとれ、
海と陸の間に自らの身を置け、もう一つのこの世に耳を傾けよ
圧倒しつくす自然の脅威に思え、たかが知れている人間だと
命が宿っている天地万物に知れ、大宇宙に対して小さな自分だと
そこに他人の運命をも自分の宿命だと感じる無常の救いが横たわっているのだ
2005/7/7
地元学実施レポート
2005年09月09日
福島新田レポート(長野県飯山市)
長野県の県、市、ふるさと水と土指導員研修の講師に行って来ました。長野県には、たくさんの棚田がありますが、 その保全方法の研修会です。平成12年にスタートしたこの研修では、棚田サミットの関係者などが多数講師として招かれているようでした。
私は、里地里山の保全と生物多様性の観点から、いくつかの提案を行ってきました。特に、 この棚田の保全で重要だと思った点は以下の通りです。
1.棚田は、平らな日当たりのよく水温の高い水田と比べ生産性は低いので、収量や効率を前提とした施策の検討は非現実的
2.棚田の地権者が、何もしないのに借地料を受け取るような制度を設けると、保全が広がらなくなる
3.所有と利用を完全分離して、地権者から行政や信頼できる機関が、管理使用を担う形で、 地権者の所有権を害さない措置を講ずる
4.利用の最大化のために、その棚田にあった利用方法をあらゆる側面から検討する
5.利用方法が、例えば、オーナー制度のような場合、都市生活者等では、棚田の維持管理技術を持たないため、極力、地権者から、 維持管理の指導を受ける。この指導を有料化して、汗をかいて指導する行為に、経済的なメリットを置く。
6.行政は、このための指導単価の設定、利用を最大化するように、広報に努め、棚田保全のために事務局機能を担う。
7.棚田のある集落は、棚田と地域の文化、自然環境を活用した地域づくりを行う。その第一歩は、地域の見直し作業、次は、 地域の自然を活用できる人材の育成、最終的には、コミュニティービジネスへの転換が重要。
8.上記流れを行政側がサポートして、地域内自給の向上、共同作業による豊かさの創出、地域外との交流による経済効果の順で、 コーディネートするなどの提案を行いました。言うのは簡単、やるのは大変かと思いますが、全国各地では、さまざまな努力が行われています。 長野県におかれましてもガンバッテください。
福島新田の入り口にある水車と灯籠。水車は、急傾斜地の水を受け粉をひいている。 この傾斜と水量があれば水の力を活かしたさまざまな取り組みが可能だ。
福島新田の中央付近に立てられたソバ屋と神楽。ソバ屋では、天ぷら、ミョウガのごま和え、オクラの天ぷら、そして、 棚田米のおにぎりなど、時の素材をいただいた。
福島新田が保全されたのは、この石積の技術、石積に隠された階段や、側溝の変わりに、棚田の地下を流す、水路技術だ。
水路と階段の詳細は、森里川海の自然再生「里の技術」を参照。
2005年09月09日











