角川里の自然環境学校(山形県戸沢村)
秋の2泊3日 戸沢村から呼ばれて、角川里の自然環境学校に行きました。 せっかくの秋、紅葉の季節なので、エコツアー体験モニターとして、(財)水と緑の惑星保全機構の事務局の美帆ちゃんをつれて、 来年度から戸沢村で始まろうとしているエコツアー、グリーンツーリズムの予行練習と今後の村づくりの方向性の調査を合わせて行ってきました。
角川のブナ林、集落から150m登った里山と紅葉の美しい奥山。この散策道は、昨年、勇士等で整備して通れるようになりました。
四カ所のビオトープを回って生き物観察をしました。保全を進めるビオトープ、こどもたちが夢中で駆け回る農村。 遊びや暮らしが景観を作り始めています。
川の中でタマアミをいれたら入ったカジカや、散策中に手にとまったテントウムシ。
里山の中で、くず細工にするアケビのツルをとる。採りすぎないように、来年ここで、アケビが食べられるように、 部分的にいただきました。社会教育課長の寺内さんも、生活学芸員でした。
生き物調べと、狩猟採取。もちろん、野菜、大豆、そば、米も自分で収穫。
自然学校の出川君と美帆ちゃん。作業後は、食の教室。地元素材100%を料理しました。
今日は、大豆が主役。お豆腐、おからのハンバーグ、豆乳の野菜汁、おからのドーナッツ。
2haのそば畑で、3トンを超えるそばを栽培。おそば屋さんが、そば道場で、そばを打ってそのままいただきます。宿泊は、 民泊とヨソモン交流会館。これも佐渡をちゃんとまねしてくれています。
帰りの車窓で、出川君のお友達の和江さんは、生き物に夢中。最後は、今後のビオトープの展開や、ツーリズムの方向、 村づくりの方向を確認して、2泊3日の戸沢滞在から帰ってきました。
現地で私達の案内をしてくれたのは、出川真也君と、戸沢村の阿部教育長、教育委員会の寺内課長、村民会議をはじめとする、地域の方々、 百数十名でした。出川真也君は、東北大学の学生で、平成13~14年にかけて、たびたび佐渡のヨソモンセンターに来て、 本人の研究活動の一環として、集落調査の手伝をしてくれた青年です。また、同時に、さまざまな地域を出川君には見てもらいたいと思い、 福井県や愛知県美浜町、全国の森里川海のネットワークなど、 先進的な取り組みをしている人と地域との交流を合わせて進めています。
私が、戸沢村にはじめて訪れたのは、農文協から発行された現代農業臨時増刊号「地元学は地域を変える」(平成13年5月) がきっかけでした。この本の中に、佐渡での取り組みの紹介や、山形での小学校版地元学の実施例を書いていたのを見て、 戸沢村から講演を頼まれたことが、この村との最初の出会いです。その翌年、平成14年、戸沢村で、村からの依頼で地元学を実施しました。 そこから出川君が合流して、その後も、地域の中で、きめ細かな地元学を、常駐しながら実施してきました。その翌年の平成15年、 小峰書店から里地ネットワークへ、小学校を舞台に、里山の暮らしや自然の四季を取材して、 図書館に治める本を作りたいという相談がありました。農文協の地元学の本を書く際に、 学校での取り組みを一緒に書いて頂いた斉藤校長先生のいる戸沢村ならば、この依頼にこたえられるに違いないと思い相談したところ、 村の4つの小学校を舞台に、順次、四季の取材を行い、全体を通して戸沢村の1年を記録するという方法をとることとなりました。
この本の取材のために行ったのが、戸沢里地塾です。年4回のプログラムのコーディネーターは、4つの小学校の校長先生と、 戸沢村民会議の十数名の勇士たち。この村民会議と教育委員会の連携こそが、教育長と社会教育課長が、 数十年かけて育ててきた戸沢村にしかない、地域と学校が連携して、学校教育と社会教育を押し進める体制でした。戸沢里地塾は、 この連携体制の強さを証明する絶好の機会になりました。およそ1年半の取材を終えて、平成16年春、守山弘先生の監修を終えて、 無事本は出版されました。本の名前は、 「里山―人と林がつくる自然 身近な自然でふるさと学習」です。この本は、 全6巻の身近な自然でふるさと学習の1冊です。
この本の完成と時期が重なるように、環境省では、読売新聞と共催して、日本の里地里山30保全活動コンクールを行いました。この30団体に、 里地塾をきっかけに戸沢村で行った地域活動は、見事コンテストで入賞しました。この間に、4つの地域の内の一つで、 出川君の常駐調査を受け入れてくれたのが、角川地区(地区住民1200人)で、地区の中心である本郷集落を核にしながら、 順次周辺地区に地元学が広がっていきました。角川里の自然環境学校は、住民から支持され、今では、200人近い高齢者の方々が、生活学芸員、 生活職人のような風合いで、自然学校の、山、川、里、 食等の先生役として、活躍しています。
さらに本年、田園自然再生活動コンクール(農林水産省・ 農村環境整備センター)に応募し、審査委員会審査を経て受賞が決まりそうです。審査委員会では、特に、守山先生から、ビオトープづくりが 「メダカ」や単独の種を中心とする偏った保全に向かわないように、地域の自然環境そのものをきちんと見つめ、 自然の中の生態系そのものを保全して欲しいというコメントをいただきました。また、現地調査を行った浜本委員からは、現在はまだ、 さまざまな取り組みが構築中という段階だが、18年度からこれまでの基盤をベースとした体験型のツーリズムを実施し、特に、 これまでの学校教育、社会教育の成果を生かした若手人材の雇用の道を開くならば、大いに期待できるというあついエールを頂きました。 この賞は、11月中旬頃正式な審査結果が発表される予定です。
地元学、生活学芸員、生活職人、地産地消、食の掘り起こし、里地里山の文化を祖父母の代から孫の代へ直接伝える、そして、 里地里山の文化を軸とした地域内雇用。戸沢村では、これから三年、私達が待ち望んでいた一つの理想的な循環・共生・ 参加型の社会モデルの一つが形づくられそうな気配を感じます。
2005年11月10日
上越後 無常の大地に日本をみた
地元学ネットワーク主宰 吉本哲郎
吉本哲郎さんからお預かりした寄稿文です。(JT)
かみえちご山里ファン倶楽部(新潟県上越市)
に訪問した際に、上越の基層文化を綴ったものです。
最終節を文頭に引用します。
「山に入り森と語れ、遊行する祖霊神の気配を感じとれ、
海と陸の間に自らの身を置け、もう一つのこの世に耳を傾けよ
圧倒しつくす自然の脅威に思え、たかが知れている人間だと
命が宿っている天地万物に知れ、大宇宙に対して小さな自分だと
そこに他人の運命をも自分の宿命だと感じる無常の救いが横たわっているのだ」
7月初旬の信州、信濃の国から越後路は梅雨空の下にある。日本海を北に進む黒潮対馬暖流の水蒸気にかすむ日本の屋根、
まだ雪を抱いた北アルプスを左遠くに眺めながら糸魚川へ姫川に沿って走る。姫川の谷は深く北アルプスの山々は高い。
1000mの高原に2000mの山があり、その奥に3000mもの奥山が聳えたつ。御嶽(3067m)、乗倉岳(3024m)、奥穂高岳
(3130m)、槍ヶ岳(3180m)、野口五郎岳(2924m)、鹿島槍ヶ岳(2889m)、槌ケ岳(2903m)、白馬岳(2903m)
である。これらの山が朝日岳(2418m)、黒姫山(1222m)を経て親不知で日本海に立っている。北アルプスは日本海に始まるのである。
上越の南西にある、北陸街道の難所として知られた親不知。
親不知は、2000mを越す山並み、夏も雪を抱く北アルプスの山たちが日本海にたてた衝立である。一気に崖となって日本海に切れ込んでいる。
400~500mの断崖が続く親不知海岸には尾根などに迂回する道とてなく、
人は海と崖の岸にできたわずかな隙間を歩いて渡るしかなかった。波洗う石の浜を通り、風吹きすさぶ崖にとりつき波を避けて渡った。
波穏やかな日はいい。しかし海はいったん荒れると容赦なく旅人に襲い掛かり、海深く人を引きずり込んだ。そんな道である。
崖を穿ち鉄道をつくっても、雪崩がトンネルを出た汽車を襲い海へと突き落とした。聞けばいくつもの哀しい話を、
崖の奥深くしみ込ませている大地である。
無事に渡れるよう波除け観音に祈った旅人たち。人を寄せ付けぬ高い崖が続き10kmに及ぶ波内際の道、親不知は朝日岳・白馬岳を経て槍・
穂高連峰に至る北アルプスの始まる海の細道、親不知。よくよく見ればあの世の入り口があるところだった。
今から800年前にも、源氏と平家が栄華と没落を繰り返した昔、越後に流された夫の後を追った妻が、
この地で懐に抱いていた愛児を波にさらわれ「親しらず 子はこの浦の 波まくら 越後の磯の あわと消えゆく」
と悲歎のすえに歌を詠んだと聞く。そんな親不知を、今も変わらずに夕陽が照らしている。
日本海は夕陽沈む海である。遠く能登の半島越しに朝鮮半島とロシアを照らす太陽が日本に夕陽を届けている。越後とは、
日本海の夕陽に特化した大地なのである。海はるかに、もう一つのこの世からこの世を照らし出しているかのように。
関川が日本海に届いている。源流は妙高高原、焼岳(2400m)、高妻山(2353m)、妙高山(2454m)、黒姫山(2053m)
に生まれた水が東に進み北に流れを変え関川となり、広大な上越の平野をつくり、日本海に届いている。ここは直江の津と呼ばれた港町、
木材に塩に塩魚が運ばれ人が行き来したところ。
古くは森鴎外作の山椒太夫という親子姉弟離散の物語の舞台、悲しくも哀しい物語が似合うところである。
親不知近くに桑取川がある。1000mの山々を源とし日本海へと注ぐほどよい大きさと長さの川がつくった大地に、村人たちは田を開き、 畑をこしらえ、山すそあたりに住まいを定めている。いわゆるふるさとの、川のある風景、日本にあった昔懐かしい農村の形を今に伝えている。 何よりもクルミ、ブナ、コナラ、アオダモなどの落葉広葉樹が山を覆っているのがいい、水がうまいのがいい、米もおいしいはずである。 見ると田や畑からだけでなく、山からフキ、ワラビ、ウド、タラノメ、コゴミ、ミズナなどの山菜のほかキノコたち、川からは鮭、 岩魚などを得て暮らしているのがよくわかる。トタンをかぶせてはいるけど元は茅葺の民家の家並みたちがあり郷愁を誘っている。 だからホッとする思い、ここだったら生きられる思いが身の内に湧いてくるのだろう。
ここに若者たちが働くようになったのは最近のことである。たずねると、民家修復の仕事をしていた。
廃校になった学校跡でも三人の若者たちが環境をキーワードに働いていた。
ゴルフ場になるのを反対し買い上げた市民の森でも若者たちが森のある暮らしをテーマに様々なプログラムを組み案内している。
夜、宴が開かれた。キュウリの入った汁は初めてだ。でもおいしい。唄があった、牧場小唄などにぎやかである。
酒を友とする土地人たちの唄は心に染みた。踊りもあった。盆踊りである。でも、男たち五人で唄ってくれた木遣り唄には驚いた。
体を揺さぶる何かが伝わってきた。地元の人たちも体いっぱい床に感動を叩きつけている。祝い唄として佐渡の「鼓動」
の人たちに断って村に持ち込み、昔ふうにした仲間の結婚式で披露したと聞く。村の人たちの感動する姿が目に浮かんできた。
新しい風が吹いていた。そんな宴だった。客人をもてなす宴には唄があり踊りがあった。
心に染みた、雪国の暖かさを知った。明るさと哀しさが同居する大地、越後を思った。
越後に厳しい自然が顔をのぞかせる。冬の5mもの大雪、吹雪、雪崩、雪解けの出水、大雨と洪水、台風、 時には地震などが幾度も越後を襲い、崩れやすい地質とあいまって幾多の悲劇と哀歌を、糸魚川の大峡谷や親不知などの大地に刻んできた。 工事中の土砂崩れ、列車や車などを襲った雪崩、地震などで幾人もの人が亡くなり、親と子が引き裂かれた越後。
厳しい自然に、人が腹を決めて生きている越後、そこには縄文のはるか昔より続く無常観を引き寄せた人の姿があった。
古の昔より人は、幾層もの文化のひだを重ねて暮らしてきた。縄文期の無常観、弥生期の定住農耕社会における文化文明と仏教、
現代の工業化社会における近代合理思想に都市という人工の思想。
越後とは何であったのか、北アルプスが人を寄せ付けず西国との往来を困難にし、
海ぎわの道も親不知と呼ばれる難所となって旅人に襲い掛かっていた。圧倒的な自然のもたらす厳しさが、縄文以降、
日本人の基層文化となった無常観を発達させたところが越後なのであろう。人は、
人の力ではどうしようもない自然の厳しさに畏怖し従順になったと聞いた。自然厳しい越後には無常観が似合うのである。無常の大地、
越後であった。
越後の民は「この世には永遠にあるものなどなにもない」という無常観に自分の経験を重ね、情を重ね、
思うままにならないから唄でほとばしらせ、思いが届かないから踊りに托したのだ。
●再び越後
越後は、日本人が心の奥深くしまいこんでいた縄文の無常観をみせるところ、無常の出来事に自分の経験を重ね自分のことのようにしたとろ、
越後は悲しくて哀しい話に彩られていた。そんな身を切られる話に自分の身を重ねて暮らしてきた人たちがいた。
自分の生身の体を重ねてもだえるかのような哀感、同情、共感・・・今も悲しみで、自分の経験を引き出す人たち。
崩れやすい地質、深い谷、荒れる海、積もる雪、豪雨・・・
越後の水、土、光、風は厳しい。越後は無常の大地にあった。それでも人は生きている、ここ越後に生きていく。
人は異変にあい、危機に直面し、困り果て、大きな時代の変化の波に翻弄されたとき、
縄文の古代から受け継いできた最も深い心のひだを手繰り寄せる。日本の風土や自然の中で育まれた最深層の意識、日本人あるいは人間の真の姿、
無常観である。
恵みをもたらすが、時として怒り狂う自然の脅威に畏れの心を抱き、神を宿らせ、神の声を聞き、小さい存在である人間としてひれ伏し、 従い、寄り添い、学び、工夫し、力を蓄え、生きてきた先祖たち、天然の無常を養ってきた先祖たち
「世の中に永遠なるものは一つもない。形あるものは全て滅する。人生とは、世界とは、人間とは移ろいやすいものだ」
寄せては返す越後の海波に諸行無常を感じた旅人たち、越後路は無限の同情と悲哀、はかなさと繊細さに満ちていた。
人の世の深い悲しみに彩られた自然厳しい日本海、そこには他人への深い思いやりと心の痛みに寄り添い、
身をゆだねて生きていく力が立ち上がっていた。無常である。
無常観がつくった、恥じらいを知り、一歩引く含羞の精神、日本人の心を越後に見た。日本のもう一つの始まりの唄を越後に聞いた。
山に入り森と語れ、遊行する祖霊神の気配を感じとれ、
海と陸の間に自らの身を置け、もう一つのこの世に耳を傾けよ
圧倒しつくす自然の脅威に思え、たかが知れている人間だと
命が宿っている天地万物に知れ、大宇宙に対して小さな自分だと
そこに他人の運命をも自分の宿命だと感じる無常の救いが横たわっているのだ
2005/7/7
地元学実施レポート
2005年09月09日
福島新田レポート(長野県飯山市)
長野県の県、市、ふるさと水と土指導員研修の講師に行って来ました。長野県には、たくさんの棚田がありますが、 その保全方法の研修会です。平成12年にスタートしたこの研修では、棚田サミットの関係者などが多数講師として招かれているようでした。
私は、里地里山の保全と生物多様性の観点から、いくつかの提案を行ってきました。特に、 この棚田の保全で重要だと思った点は以下の通りです。
1.棚田は、平らな日当たりのよく水温の高い水田と比べ生産性は低いので、収量や効率を前提とした施策の検討は非現実的
2.棚田の地権者が、何もしないのに借地料を受け取るような制度を設けると、保全が広がらなくなる
3.所有と利用を完全分離して、地権者から行政や信頼できる機関が、管理使用を担う形で、 地権者の所有権を害さない措置を講ずる
4.利用の最大化のために、その棚田にあった利用方法をあらゆる側面から検討する
5.利用方法が、例えば、オーナー制度のような場合、都市生活者等では、棚田の維持管理技術を持たないため、極力、地権者から、 維持管理の指導を受ける。この指導を有料化して、汗をかいて指導する行為に、経済的なメリットを置く。
6.行政は、このための指導単価の設定、利用を最大化するように、広報に努め、棚田保全のために事務局機能を担う。
7.棚田のある集落は、棚田と地域の文化、自然環境を活用した地域づくりを行う。その第一歩は、地域の見直し作業、次は、 地域の自然を活用できる人材の育成、最終的には、コミュニティービジネスへの転換が重要。
8.上記流れを行政側がサポートして、地域内自給の向上、共同作業による豊かさの創出、地域外との交流による経済効果の順で、 コーディネートするなどの提案を行いました。言うのは簡単、やるのは大変かと思いますが、全国各地では、さまざまな努力が行われています。 長野県におかれましてもガンバッテください。
福島新田の入り口にある水車と灯籠。水車は、急傾斜地の水を受け粉をひいている。 この傾斜と水量があれば水の力を活かしたさまざまな取り組みが可能だ。
福島新田の中央付近に立てられたソバ屋と神楽。ソバ屋では、天ぷら、ミョウガのごま和え、オクラの天ぷら、そして、 棚田米のおにぎりなど、時の素材をいただいた。
福島新田が保全されたのは、この石積の技術、石積に隠された階段や、側溝の変わりに、棚田の地下を流す、水路技術だ。
水路と階段の詳細は、森里川海の自然再生「里の技術」を参照。
2005年09月09日
地元学ネットワーク 吉本哲郎 【2005/09/03】
水俣の再生は、人々の心の再生から始まり、今、環境先進地と言われている。その契機は以下の通りだ。
事例1 「水のゆくえ」をみんなで調べた。
・水俣再生を環境から始めるために、水に着目して、水と暮らしの関わりを住民と協働で調べた。
・「山、川、田、畑、簡易水道、上水道、自家水源、井戸、池、農業用水路、用水の井堰、水道の管路、排水の流れ先、雑木山、自然林、自然神
(山の神、水神、田の神、荒神さん)」を調べて1/2500の地形図に色塗りし、主なところを写真にとり貼っていく。
・調べてわかったことは、森の変化が川の水量に影響していたこと、水が忙しくなっていたこと、川もまっすぐになり、
山の道は雨のときに川になり、水が早く下流にながれていくようになっていた、そして村の佇まいは水がつくっていたこと、だから、
美観ではなくて生存風景であること、などである。
・水のゆくえを調べて、森と海、暮らしとつないでみたら、いろんなことが見えてきた。
事例2 絵地図「水のある風景」をつくった。
・川に関する情報、魚やホタルなど生き物や暮らしぶり、川の様子などを網羅した絵地図を作成し住民に配布した。自分たちの思い出の川を守り、
子供たちに伝えていくために。
・作成してみたら、川を中心とした生き物たちと人の暮らしの曼荼羅のようになった。
・人も生き物も植物も水なしでは生きられないからであろう。
以上の二つの事例に表現したことがら、作成してわかってきたこと、ほか調べてみて見えてきたことがある。
●その1 自然とは何だろう?
自然は人だけでなく多くの生命の存立する生命基盤である。
自然は大きければ大きいほどいい、多様であればあるほどいい。
自然は元に戻ろうとする力が働く
●その2 再生とは何だろう
Aさん:「森(山)、川、海を守らなくっちゃ」
Bさん:「何を守るのかい?」
Aさん:「だから、海とか、川や森」
Bさん:「そこには人がいるのかい?」
Aさん:「・・・?」
Bさん:「海や木、森とか川を守るのでなくて、森(山)、川、海のある暮らしを再生することじゃないかなぁ 人との関わりが、
どうかなんだから」
●その3 人の参加できる技術を(大熊孝)
どこかに村人たちの力・技術でできるところを残しておかないと、ものは長くもたない。
●その4 自然との回路が大事
「女の人を見ていると山菜などの獲物がないと山には入らないよなぁ。何かとってくる」
「川はヤマメ,アユ、コイなどの釣り、また泳いだり、テント張ったり、芋煮したり、写真とったり、などの回路があると、
大事にするようになるし、川そのものの仕組みやら、働きなどがよく見えてくるよ」
同感である。
「昔は、川はほとんど生活の一部だった。でも今は川で洗濯もしない。なんだか川は遠ざかってしまったようだ」と、ある村人が語ってくれた。
●その5 村の知恵で、ゆっくり扱うこと
「昔は、冬場に山の道をみんなでつくったりしていた。しかも人力でやっていたから、結果的にゆっくりとしかできなかった。
それが自然となじませながらやったことになった。村人たちは、山仕事の帰りに、道の土が雨で流れないように、排水のため、
横に切りながら帰っていた。それが、一箇所に雨が集中しないことになって満ちを守っていた。また、村の人たちはどこが危ないか、
水が出やすいか、崩れやすい地形なのか、風当たりは、などの知恵を持っている。それも、山の道が安全な道になっていったことにつながった」
でも、今は、専門家と称する人たちが来て、やってしまう。村の知恵は素人といわれて、いかされなくなった。
●その6 地元学より
・調べた人しかくわしくならない。行動に結びつかない。
・知の植民地になるな
・経済には、貨幣経済、共同する経済、自給自足の経済の三つがあるのに、貨幣経済の考え方だけで解決しようとしているのかもしれない。
● その7 哲学者の内山節、鬼頭秀一前東京農工大学教授、大熊孝新潟大学教授による飯沼哲学塾対談より
<小さな世界への回帰が始まっている。内山節(哲学者)>
内山 これまで私たちは大きな世界に出て行くことが知的で立派な人間のたどる道だと思ってきた。でも、
大きな世界には一人の役割が見えてこない。地球環境だといっても、無責任になってしまう。足元のことからしか始められない。
私たちは役割のみえる小さな世界に暮らしていたほうがよっぽど幸せだったのではないか。」
われわれが、普遍的なものとして教わったことが、実は欧米ローカルの理論や思想
にすぎない、ということもわかってきた。
<あいまいさ、深い世界・技術は、割り切れないものが見えてこないと>
鬼頭: 合理主義にもとづいた知性は、割り切れないもの、あいまいなものを、うまく取り込むことができない。
そういうものと調和できる精神が必要な時代、あいまいに耐えられる精神が必要な時代になっている。
内山: 深い世界は、割り切れないものが見えてこないと、とらえきれない。
大熊: 深い技術は、あいまいさから逃れられない。河川の技術を例にとれば、自然や人と川の関係自体があいまいさを持っているのだから。・・
・
<場所と時間から切れたものが学問となった。地域という場所と時間を失ったシステムは
退廃する。自然との関係、人間との関係が見えていないものはだめになる>
大熊: すべてのものは場所と時間軸があって存在している。ところが、
場所からも時間からも切れたものが普遍的な知識として学問の対象になった。
鬼頭: 地域という場所と時間を失ったシステムは、短期間のうちに退廃していく。
ローカルな世界にこそ真理がある。思想はローカルなものである。
大熊: 具体的な自然との関係や、人間との関係が見えていないものは駄目になる。
2005年09月09日
棚田の石積と階段、地下水路 福島新田の石工技術(長野県飯山市)
長野県には、多くの棚田がある。その中でも、特に、飯山市の福島新田は、城の基礎を築いた石積技術が伝わっている。
一見何気ない垂直の石積のようだが、垂直の石積を上り下りする農家の姿がある。
階段が垂直の石積の中に隠されている。
さらに、石積にトンネルが空いている。上段の水路から棚田に入らず下段の棚田に流される地下水路が棚田の地下を流れている。
田の水は、大雨に備え、沢からいきなり棚田に入ることはない。側溝水路が常に整備され、水は、側溝を流れ、田に必要な量だけの水が、 田に入るしくみになっている。
しかし、この棚田では側溝がなく、棚田の下を伏流水のように流れる地下水路が、地下側溝の役割を果たしている。この福島新田は、 まさに、城の石積の上に築いた水田のだ。(JT)
2005年09月09日














