竹田純一
●里地ネットワーク 竹田純一
たけだ・じゅんいち 里地ネットワーク事務局長 1960年1月、東京都生まれ。
■プロフィール
わたしは東京の目黒で生まれ育ったんですが、子どものころは、いわゆる“川ガキ”で、それが今の活動の原点になっていますね。
隣の八百屋のおやじさんも深刻な川ガキで、父も川ガキでした。小学校の六年間、週末は、学校をさぼってでも川に出かけてました。
八百屋のおやじさんの車に乗って行くときには朝二時に出発。五時には現地に着いて、釣り、素潜り、山菜取りなど、
川で遊べることは何でもした。
小学校高学年からは親友三人で、電車に乗って川という川に出かけた。関東圏の川で行ったことのない川はないというくらい、
小中学生時代に通い詰めました。
夏休みは、東京都町田市の祖母の家が「こどもの国」の裏の谷戸にあったので、毎朝四時にクワガタ捕りに出掛けてました。
このような遊びというか探検・放浪癖が高校になっても治らず、自転車で全国を旅しました。大学時代は車で、卒業してからはカヌー。今でも、
いい水面や雑木林が見えると、覗きこんで魚影や昆虫の気配を探してしまいます。水は冷たいか温かいか、魚や昆虫の動きは、川虫は、
クワガタはいるかいないか。仲間内からは、「竹田にいい水を見せると危険だ」「川ガキに返る前に何とかしろ」といわれています。
大学では全然関係ない法学を専攻し、卒業後は金融機関に就職。三〇歳で転職、イギリスのシンクタンクに入り、
当地の川やカントリーサイドを毎週末見て回りました。もちろんキングサーモンや大ナマズにも出会えました。でも、
見較べると日本の里山のほうがはるかに優れていることを実感。日本の渓谷のすばらしさ、民家の煙や里山の魅力、
ふるさとの違いを痛感したんです。折しも日本はバブル経済の真っ只中。各地で開発が進み、山が削られ川は埋まり、
自然は奪われていくものとあきらめていた時代です。そんな日本とは裏腹に、ロンドンでは街なかでリスが顔を現わすのを見ました。
同僚は毎朝乗馬してから事務所に向かう生活。自然の豊かさを実感込めて話す彼の姿を見て、大いに憤慨しました。
日本でも何かできるんじゃないか。三一歳、ちょうどいい時期だと思い、それまでの仕事を一切辞めて、環境問題しかやらないと決意し、
環境運動の世界に入りました。
環境情報センター、ボランティア支援、重油災害、非木材紙、合併浄化槽、有機農業、酪農王国、クラインガルテンなど、
これまで社会になかったさまざまなしくみづくりをしてきたなかで、里地ネットワークの設立にかかわり、
童心に返るように現在に至ったわけです。
(『第1章 森、里、川、海──四分野で目指しているもの2「里」』より抜粋)
2005年11月18日
山道省三
●全国水環境交流会 山道省三
やまみち・しょうぞう 全国水環境交流会代表理事 1949年11月、長崎県生まれ。
■プロフィール
長崎の山奥で育ちましたが、ぼくらの世代は、子どもの頃に川で遊ぶのが普通だったんです。
昭和四〇年代に学校プールができていく前に子ども時代を過ごせたことに安堵しています。
今、五〇~六〇歳代の人たちの多くは川で遊んでました。中学生まで続けているのはよほどで、たいてい小学校の六年間で卒業した。ただ、
その体験はきわめて濃厚だったわけです。
川だけではない。ここまでが川で、ここからは山で──というような区切りはないんです。特に長崎の山というのは、そんなに高くはなくて、
丘みたいなもの。中腹までミカン山になっているようなところが多く、川幅もせいぜい数十メートル程度。そこが遊び場で、
川をさかのぼっていけばミカン山があって、その奥に行けば雑木林があるという世界でした。
そこには、自然の食べ物やミカンや柿などがあった。長崎では年中果物がなり、柿やミカンはどこにもあったし、
あそこの川岸を何月何日頃によじ登ると、スイカが、メロンが食べ頃というのも、大体わかっていた。もう一つは、川の中の生き物。
とくに素潜りして素手でフナを捕まえることと、ウナギを捕ることが最終目的になっていた。捕ったら確実に食べた。ほかの雑魚は、
もう見向きもしない。
山遊びでは、それらと同時に、野鳥を捕っていたし、あわよくばウサギを捕っていた。
長崎のミカンは一二月の初旬に収穫するんです。その頃は、ヒヨドリがビタミンCでたっぷり太って、最高においしい。お正月の食卓に並んで、
くちばしと爪と羽以外は全部食べていた。家に持ち帰ると、「よく捕ってきた」とほめてもらい、子どもが大人の中に入っていく入り口として、
きわめて有効な手段になっていたんです。
大学に進学してからは、造園科に入りました。ちょうど、一九七〇年のはじめごろに、環境問題が注目されていて、
どういう人が携わっているのか関心を持ったところ、それが、どうも造園の人たちだった。その中で、公園や個人庭園を造ったり、
国立公園でなにかするというのとはちょっと違った、どこか膨らみを持った概念としての環境問題をやりたかった。
(『第1章 森、里、川、海──四分野で目指しているもの3 「川」』より抜粋)
2005年11月18日
木村 尚
●海辺つくり研究会 木村 尚
きむら・たかし 海辺つくり研究会理事(事務局長) 1956年11月、横浜市生まれ。
■生まれ育った「港町」で
わたしは、「港の歌」を市歌とする横浜市に生まれ育って、小学生のときから事あるごとに「港町・横浜」の意識を刷り込まれてきたんです。
一九五〇年代後半の日本は経済成長期にあり、東京湾内にもたくさん海水浴場がありました。干潟も数多く残され、簾(す)
立て遊びや干潟での脚立釣りも行われていた。江戸川河口ではハマグリが採れ、海苔(のり)漁業も盛んで、
東京湾の漁獲高はピークを迎えようとしていた。
ところが一九六〇年代半ばを過ぎると、東京湾の後背地の人口は爆発的に増え、干潟の埋立も進み、湾の環境が著しく悪化していった。
横浜市でも、東京都内に働きに出る人々の宅地の造成が内陸部を中心に進み、その人口が増加するにつれて、「横浜=港町」
との意識は言葉だけのものとなっていった。並行して港内の水質も悪化の一途をたどり、人々の気持ちはますます海から離れていったのです。
大学は東海大学海洋学部で、もともとの専門は海洋地質。プレート・テクトニクスを専攻していました。オイルショックの後、
一九七九年に卒業。就職難のころで、ほとんど就職ができる状況ではなかった。海のことで何かやりたいと思っていたもののなかなか見つからず、
やっと拾ってもらったのがサルベージ会社でした。
海とのつながりのある仕事に就いた私が、なぜ今はNPOの専従になったのか、「浜」
のない横浜に海辺をつくろうと活動するに至ったのかをお話しします。
■何のための「環境コンサル」
サルベージ会社の仕事の内容は、沈没した漁船の引き上げや海難救助が多かった。とはいえ人の不幸を喜んでばかりもいられない。
では日常的に何をやるかと考えたとき、大学時代にかじっていた環境関係の仕事を始めることにしたんです。会社の中で三人が声を掛け合い、
組織をつくってスタート、それが順調にいき始めて独立した。
環境の仕事といっても、その当時は、ある知事が「今の子どもたちは昔と違って、青い空もきれいな海も知らないから、
大人になってもそんなものを求めない。だから環境行政なんかをやる必要はないんだ」と、そんなことを平気で言っていた時代でした。
始めた会社はコンサルタント会社で、海の調査を商売にしていたんです。最初は会社を何とか大きくしていかなきゃいけないという気持ちで、
海へ行ってはバケツで水を汲んで分析する。一杯汲むと一〇〇〇円とか二〇〇〇円になった。水を汲んで、海を眺めながら、「銭がうなっとるな」
などとやっていました。
そうこうするうちに、「何のためにやっているんだろう」という思いが強まってきた。開発行為のような話がないと、
環境調査の仕事なんてなかなかなくて、環境、環境と言いながら、やればやるほど、何か海全体の環境はますます悪くなっていく、
そんな思いが強まった。
■ボランティア活動で見えたもの
仕事に余裕も出てきて、ボランティア活動に参加し始めた。やっていくと、いろいろな問題点に気が付く。企業としてできることの限界や、
ボランティアの人たちによって、市民活動としてしかできないことがある。そういったことにだんだん気がついていった。
海の分野でいうと、こうした市民活動が行政や民間にはできない“すき間”にあると感じたのがひとつ。もうひとつは、反対運動って、
確かに行政が動き出すきっかけにはなる。でもきっかけにはなっても、結果として、反対運動によってもあまり海がよくなってはいない。
例えば、埋め立ては阻止できたものの、その後、では反対運動がうまく昇華して活動が続き、
そこがよくなっていった事例がどれだけあったのか。戦術的に反対運動というのはどこか限界があるのではないかと感じていた。また、
仕事としてやっていた環境アセスメントは最低限の現状維持であって、「よくする」行為ではないとの思いもあった。
もう少し何か踏み込んでできないかなという閉塞感を抱いていました。
企業にいながらボランティア活動に取り組んで、結構、いわれなき誹謗も受けてきた。当時は、企業にいる人間がこうした活動に参加すると
「企業利益のためにやっている」とみるような人も多かった。「誰がやってもいいんじゃないの」と思いながらやっていたものの、
どうにも納得できないような状況があった。
やっていくうちに、だんだん周りに人が集まってきた。誰かが事務局機能を果たさないと、
平日の晩と土日だけじゃもうどうにもならないなという感じになってきた。「だれかやらなきゃいけないな」といったとき、
自分はちょうど四〇歳を越していた。人生半分終わったから、残り半分は好きなことをやっていこうかなと発足させたのが、「海辺つくり研究会」
です。
(『第1章 森、里、川、海──四分野で目指しているもの 4 「海」』より抜粋)
2005年11月18日
佐藤年緒(環境・科学ジャーナリスト)
「森、里、川、海をつなぐ自然再生 全国13事例が語るもの」
自然再生の実践に学ぶ推薦の書
1.なぜ13事例が先駆的と言えるのか
この本は、全国各地で自然の再生を目指して地域づくりに取り組んでいる先駆的な13事例を紹介したものである。北海道から九州まで、森林、
山村、湖、川、海といった場で、住民やNPO(非営利組織)、専門家、地方自治体、国などが連携し、取り組んでいる実例である。
いったん失われてしまった、または失われつつある自然環境を回復させて、自然と人と共生する地域社会を取り戻そうと、
長年地道な活動して少しずつ成果を上げている事例である。
これらの取り組みを知ることによって、一口に「自然再生」と言っても、森林や農山村、都市、河川、
海といったフィールドによる特性に違いがあり、また地域の歴史、
活動を進めている人々の個性によって多種多様な活動の形態があることが理解できるであろう。
そして自然再生に向けた身近な取り組みを進める上で、何が大切なのかを知る指針となるだろう。
自然再生推進法が整備される以前から法律でも重要視している内容を先取りし、自主的に、行政や地域住民、
団体などと連携をとって取り組んできた経緯がある。そこに自然再生を目指す根本精神が流れ、
法律では示していない活動に不可欠とも言える方法や知恵、技術、例えば活動を進める上での動機や手掛かり、人とのネットワークのつくり方、
組織運営の仕方などに工夫がある活動である。さらに地域間の交流を意識した活動を繰り広げている点でも「先駆的な事例」なのである。
2.循環型社会をつなぐ4団体
その意味でこの本は、各フィールドで展開している個々の自然再生活動を紹介しただけでなく、その舞台である森、里、川、
海をつなぐ視点でまとめたことが最大の特徴となっている。地球環境は、さまざまな生物が相互にかかわり合うことで支え合い、水や大気、
物質などの循環によって成り立っている。人と自然と共生する地域社会をつくるにも、循環を視野に入れた広域的な視点が欠かせない。
源流の森から海に至るまでの流域圏内で、また農山村や都市との間で、自然再生の活動を担う人々がどう交流し、
認識を広めていくことが重要である。
各フィールドの“つなぎ役”として登場するのは、森林、里地、川、海で、それぞれの地域活動を応援する全国的なネットワーク組織である
「森づくりフォーラム」、「里地ネットワーク」、「全国水環境交流会」、「海辺つくり研究会」の4団体である。
森林、農山村、河川、そして海や港湾…と、これまでフィールドの場を超えて交流する機会は少なかった市民団体が、今回、
4団体のリーダーたちが初めて連携し、互いに異なるフィールドから見た目で、自然再生に取り組むには何が必要なのか、その共通点や違い、
課題を見つけた。互いの取り組みを知り、ときには山、川、海の幸を堪能しながら意見交換を重ね、その成果をまとめた。
4団体の連携は、環境省自然環境局自然環境計画課の応援を得ながら進められ、本を編集した主体「自然再生を推進する市民団体連絡会」も、
この4団体の連携に名づけたものである。
取り上げた13の事例は、それぞれの団体が日ごろ直接関与したり、応援したりしている地域の活動であり、「紹介するに値する」
と評価しているものである。取材執筆した担当者は、4団体に関連する地域活動を進める若手リーダーが中心だが、
日ごろの活動とは異なる分野をなるべく選んで取材することで、新鮮な目で異なる地域の自然再生活動や人々の姿をレポートしてもらった。
3.自然再生活動のリーダーは
この書で描き出したことの一つは、活動のリーダーたちの生きざまである。
リーダーがなぜ活動に取り組むようになったのか。何がそうさせたか。その活動がどう始まり、どう人から人へと伝わっていったか。
どういう自然を取り戻そうと願っているのか。次の世代にどう伝えようとしているか。今後、
自然再生の活動を進めていようと願っている人たちにとって、よきリーダー像を知る機会になろう。
この本は、これから地域での自然環境を保全しながら、地域づくりを進めようとしている人たちにぜひ読んでいただきたい。
また市民との力を協働で進めようとしている行政関係者、もちろん大学の研究者、
さらには地域の中でその役割を果たそうとしている企業の関係者にとっても、
これからの協働の時代の到来を受け止めることができるのではないだろうか。
4.各章の読み方の参考に
本書の構成を読み手の関心に沿って読めるようにするために紹介すると、
第一章では、森、里、川、海の全国ネットワーク組織を率いる4団体のリーダーに、その団体の活動を紹介していただくとともに、
その仕事にかかわるようになった自分自身の個人史も触れてもらった。
第二章では、森、里、川、海での自然再生の活動事例の13ヵ所を紹介した。森、里、川、海の順に列記したが、内陸の湖(諏訪湖)
や海に近い汽水湖(宍道湖)、河口部も、海や河川として紹介している。
第三章では、その13事例の経験を通して、何が自然再生にとって大事な視点かを各ネットワークのリーダーに座談会で話し合ってもらった。
座談会には4リーダーのほか、行政と市民活動をつなぐ役割を果たしている地球環境パートナーシッププラザの川村研治さんにも参加してもらい、
コメント(第5章で紹介)をいただいた。
第四章は、先に紹介したように自然再生法の成立経緯を見守った佐藤寿延氏(前環境省自然環境局自然環境計画課長補佐)
に法律の特徴と今後への期待を寄稿してもらった。
最終章では、これまでの13事例のレポートと座談会での議論を踏まえて、
これからの再生事業をどう発展させていく上での重要な要素やこれからのあり方をまとめた。
2005年06月23日
木俣知大
●森づくりフォーラム 木俣知大
きまた・ともひろ 森づくりフォーラム研究員。1977年7月、東京生まれ。
■プロフィール
野山に設定されたチェックポイントを目指して、
道なき道を地図とコンパス頼りに走り回るオリエンテーリングに中学のときにめぐり会いました。中高時代には全国の野山を駆け回り、
放置されて薄暗い森や、雪の重みや台風でなぎ倒された山の木々を目の当たりにしました。森の危機的状況を肌で感じた最初のきっかけです。
大学ではそんな森の荒廃対策に取り組むため、林学を専攻しました。日本の森林の約六割は人口わずか四%の山村にある。
一方で森林の多面的機能の受益者は大多数が都市住民です。ところが都市住民は森林荒廃の現状を知らないばかりか、当事者意識に欠ける。
こうした現状に危機感を持って自然教室や森林ボランティア活動、都市と山村の交流などを手がける、現場主義の研究室に所属しました。
「森づくり」を自らの問題として捉え、健全な森を次世代に引き継ぐために知恵を絞り、汗を流して、森を守り育てるプロセスにかかわる。
そんな新たな「森づくり」の主体となる「市民」の必要性と可能性を感じてきました。大学院修士課程では、「社会全体で森林を支えていく」
しくみづくりのため森林環境教育の推進方策を研究テーマに選びました。
森林・林業界には、行政官や研究者といった、計画や評価プロセスの担い手が数多くいる反面、実践を担う存在に事欠く実態があります。
大学で学んできたことを社会に還元するとともに、市民側に立った組織の中で実践を重ね、しくみづくりに取り組んでいきたい。
そんな思いを抱いて、社会に出る第一歩を「森づくりフォーラム」で踏み出すことにしたのです。
(『第1章 森、里、川、海──四分野で目指しているもの1「森」』より抜粋)
2005年06月17日
